大判例

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東京高等裁判所 昭和47年(ネ)1024号 判決 1985年1月24日

控訴人(選定当事者)

本川政義

森五一

森猛

右控訴人ら訴訟代理人

毛利与一

亀田得治

岩間幸平

島田信治

被控訴人

右代表者法務大臣

嶋崎均

右指定代理人

小野拓美

外二名

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

一  控訴人ら訴訟代理人は「1 原判決を取り消す。2 原判決添付別紙目録(一)記載の土地につき同目録(二)・共有者欄に記載の者が同目録・持分欄記載の割合による共有持分権を有することを確認する。3 被控訴人は右目録(二)・共有者欄に記載の者に対し右目録(一)記載の土地を引き渡せ。4 訴訟費用は第一、第二審とも被控訴人の負担とする。」との判決並びに右3につき仮執行の宣言を求め、被控訴人指定代理人は控訴棄却の判決を求めた。

二  当事者双方の主張は、次に付加・訂正するほかは、原判決事実摘示欄の「第二 主張」(別紙目録(一)、(二)、(三)を含む。)に記載のとおりであるから、これを引用する。

(原判決中の字句の訂正等)

1  原判決三丁裏四行目に「代代」とあるのを「代々」と改め、同四丁表一一行目の「そして」のあと、同五丁表五行目の「委ねられており」のあとにそれぞれ「、」を付し、同六丁表一〇行目に「少く」とあるのを「少なく」と、同八丁表一〇行目に「一〇名」とあるのを「一一名」とそれぞれ改める。

2  同一〇丁表二行目の「江戸時代において」から同四行目の「認めるが」までを次のとおり改める。

「本件土地が、江戸時代、日向国高鍋藩の領内に属していたこと、本件土地の近辺には揚原、高則、胡桃ケ野の三部落が存在したことおよび本件土地のほぼ東南に行政裁判所の判決に基づく協議の結果、高則、胡桃ケ野両部落の住民の共有となつた山林が存在することは認めるが」

なお、被控訴人による右の訂正に対し、控訴人らは、これが自白の撤回に当るとして、異議を述べた。

3  同一〇丁表一〇行目及び同丁裏六行目の「認めるが」のあとにそれぞれ「、」を付し、同一三丁表二行目に「土畳」とあるのを「土塁」と改め、同一四丁表八行目冒頭の「入され」のあと、同九行目冒頭の「い以上」のあと、同一〇行目の「蓋し」のあと、同一一行目の「ものではなく」のあと、同丁裏一〇行目の「しかるところ」のあと、同一五丁表四行目の「しかるに」のあと、同一六丁表七行目の「よると」のあと、同一七丁裏七行目の「しかし」のあと、同一八丁表一行目の「そして」のあと、同六行目の「定まらず」のあと、同丁裏七行目の「そして」のあと、同一九丁表二行目冒頭の「らず」のあと、同七行目の「ものであり」のあと、同丁裏五行目の「認めるが」のあと、同二〇丁表二行目の「のみならず」のあとにそれぞれ「、」を付する。

(控訴人らの主張)

1  分家筋の者の共有持分権取得の経緯

明治四三年五月六日に、いわゆる里牧訴訟の判決があつて後、本家筋の者ら(原判決八丁表六行目から八行目に記載の八名)は、残り半分の里牧の返還を求めて、請願、申請等の活動を開始した。しかし、この里牧返還運動は容易でないものであつたため、本家筋の者らは、里牧が官有とされた後、分家して一家を構えた分家筋の者たち(原判決八丁表一〇行目に記載の一一名)にもこの運動への参加と協力を求め、一方、分家筋の者たちは骨身を惜まずこれに協力し、費用も平等に分担した。このような状況のなかで、本家筋の者らと分家筋の者らとは、互いに、里牧については分家筋の者も本家筋の者と同等の権利を有することを暗黙のうちに認め合い、黙示の合意が成立していつたものである。この合意が成立した時期は、各分家筋の者が本家から独立して一家を構えた頃であり、各分家筋の老によつて異なるわけであるが、これを極く大雑把にいえば、明治二〇年代から大正年代に至るまでの間ということになる。そして、本訴の提起に先立つ昭和三五年秋頃、右本家筋、分家筋に当る者ら(本件の控訴人らとこれを当事者に選定した選定者)を含む地元民の会合において、右合意の成立が明示的に承認され、再確認されたものである。

2  高則、胡桃ケ野、揚原三部落民による高則牧の支配進退

高鍋藩の領内にはじめて里牧が出現したのがいつの年代であるかは記録上必ずしも明らかではない。高鍋藩による馬匹生産を目的とする本格的な牧場経営は慶長一四年(一六〇九年)の岩山牧の設置に始まるが、その当時すでに領内には里牧が存在していたかも知れない。

里牧における馬匹生産実績は御牧のそれを凌駕するものであつた。これは里牧の施設が御牧同様、あるいはそれ以上に良好に維持管理されていたことによるものであり、現今、なお形をとどめている施設の残痕や地名、口碑等を総合してみると、その施設は、おおよそ次のようなものであつた。

(1) 土塁・石塁(牧堀・堀)

土もしくは石で築いた堤とその内側に沿つて掘られた濠とからなる牧場の囲繞施設である。地元ではこれを「牧堀」または「堀」とよんでおり、今日でも、現地にその痕跡をみることができる。土塁はや芝と土とを交互に積み重ねて作る「芝土手」という構造のもので、上部の幅員は人が走つて通れるぐらいの広さがある。土塁・石塁は傾斜地の、山の尾根側の隣地との境界に沿つて延々と築かれており、里牧の範囲を画することはもとより、放馬が越境して隣地を荒らし、また野性の動物が牧場内に侵入するのを防止する等の役割を果たすものである。

(2) 木柵(芝垣・壁)

里牧の、山の尾根側の隣地との境界を画するのが土塁・石塁であるのに対し、麓側の田畑や宅地との境界を画する囲繞施設が木柵である。木柵は牧場内の切替畑の周囲にもめぐらされ、作物が放馬に荒されるのを守つた。この木柵は歳月とともに悉く朽ち果て、今日では現地にこれをみることはできないが、都井岬に今なお残る御崎牧ではその実物をみることができ、往時の里牧の実況がしのばれる。

(3) 木戸(けど)

土塁・石塁と木柵によつて囲繞された牧場への出入口が木戸である。地元の訛では「けど」といい、その所在場所は今日では地名化しており、「ケドンロ」(木戸の口)とよばれている、木戸の構造は牧場の内側の方向へ開くいわゆる開戸方式であつて、手を放せば扉が自動的に閉じるように作られており、馬の逸走防止のための細かい配慮がなされている。その実物は今日でも前記御崎牧にこれをみることができる。

(4) 牧場内を区切るための土塁・木柵

牧場内は土塁・木柵によつて、さらにいくつかの小区画に仕切られ、放馬はそのうちの一区画で行われ、その区画内の草がなくなると他の区画へ移し、もとの区画内での草の新芽を大切にして後日の成育を図るという方法がとられていた。地元の人々は全体としての牧の名とは別に右小区画にも牧名をつけてよんでいたのであつて、地元には今日でもその牧名の一部を記憶している古老もある。

(5) 避暑林

放牧中の馬が炎天下の暑気や荒天下の風雨を避け、また夜間の憩いの場とするため牧場内に仕立てられた林が避暑林である。里牧にはこのような避暑林(冬期にあつては防寒林)が各所に点在していたほか、草原中には放馬に避暑用の木陰を提供するための大樹もあつた。

(6) 水飲場(みずくれ)

馬の水飲場は牧場には不可欠の施設である。地元ではこれを「みずくれ」と称し、里牧内には主に谷川の流れを利用した「みずくれ」が随所に設けられていた。

(7) 山の神

里牧の経営に当る人々は馬の増殖と安全を祈願して牧場内の各所に牧の守護神である「山の神」を祀つた。この「山の神」の祠とこれにかかわる神事の習慣は今なお現地に残つている。

以上のような諸設備は、その維持のためにひとかたならぬ労力、資金を要したことはいうまでもない。地元農民らはこれをその共同作業によつて補填したのであり、牧場の維持が、藩庫の力をもつてしても容易でなかつたことからすれば、里牧を御牧と同様、あるいはそれ以上に良好に維持管理することがどれほどの難事であつたかは推察するに余りあるところである。

里牧の利用が許されるのは地元部落民であり、里牧の利用を許された部落民を「牧子」とよんでいた。里牧の利用は牧子にのみ許され、他部落民の利用を許さないのが建前であつたが、里牧によつては料金を徴して、他部落民に馬を入れさせていたところもある。もとより、里牧の目的は馬匹生産のための放牧にあることはいうまでもないが、その目的の妨げとならない限度で、牧子により、牧場内の土地の一部が切替畑(開墾して畑とし、三、四年耕作して土地がやせてくると、そこを捨てて他の場所を切り拓くこと)として利用され、他の一部には植林も行われた。このようにして植林された樹木が杉、桧であるときは、これについて部一山の制度(高鍋藩の林業奨励策として、地元部落民に植林を督励し、成木を一定の割合をもつて藩と植林者とで分収する制度)が適用されたが、部一山制度は植林された樹木が杉、桧であるときは、定銀畑・山(一定の銀を地租として上納している畑・山林)に植林された場合を除き、その地盤が藩の支配下にあると否とにかかわりなく適用されたのである。したがつて、里牧内に植林された杉、桧について部一山制度が適用されたからといつて、その地盤が藩の支配下にあつたといえないことは多言を要しない。

里牧の管理運営については、役人を差し向けるなど、藩がこれに何らかの関与をしていた形跡は見当らない。御牧が牧奉行を頂点とし、牧別当、牧部当、牧掛、牧番(牧方または牧廻)等の役人を配した組織体制のもとで管理運営されていたのに対し、里牧は牧乙名または牧頭取と称する総代を立て、牧廻、牧守、布令方等の世話役を選んで、牧仲間(牧子)による共同運営がされていた。このような体制による管理運営については、それが文書化されているかどうかは別として、一定の「村決まり」があり、これに違反した者に対しては、「ちよがめし」または「かまどばなし」と称する私刑が加えられた。このように地元部落民の自治によつて運営される里牧は、部外者に対する排他性が極めて強く、土塁・石塁をはじめとする牧の諸設備と右のような管理体制によつて里牧については地元部落民による強固な排他的支配が確立されていた。

高則牧は、以上のような性格の里牧の一つであり、高則、胡桃ケ野、揚原の三部落民によつて支配進退されていたものである。揚原部落民が高則、胡桃ケ野両部落民とともに高則牧を支配進退していたことは今日に残る諸資料や地元の古老の言によつて明らかであり、明治四三年五月六日の、いわゆる下戻判決において、その事件の原告となつた高則、胡桃ケ野両部落民は高則牧を支配進退していた者の約半数であると説示しているが、残りの半数こそ正しく揚原の部落民であつて、そのほかの何者でもないのである。

3  官民有区分の法律的性質

土地所有権は、明治以前の永い歴史的経過の中で確立されたものであつて、明治初年に実施された地租改正事業およびこれに伴う官民有区分によつて創設されたものではない。地租改正事業は、土地についてはすでに所有者が存在しているとの認識のうえに立つて、それが誰であるかを調査確定し、その所有者から地価の一〇〇分の三を地租として徴収することを目的としたものである。このことは地租改正事業が実施される以前に、地方によつてはすでに、民有地の所有者に対し、「地主持主タル確証」としての地券が交付されていたことからも明らかである。地租改正に伴う官民有区分は、正に問題の土地が官と民のいずれに属しているかを確認する行為であり、したがつて、本件処分が無効である以上、控訴人らは、本件土地について本件処分以前にすでに確立された所有権を有していたものというべきである。

4  いわゆる下戻判決の効力

下戻法による「下戻」の制度は、官有とするとした官民有区分のうち問題のあるものを、その対象となつた土地を、官民有区分によつて有効に官有となつていることを前提として、行政庁の処分により改めて下げ戻すという形式を借りて是正しようとするものである。しかしながら、官民有区分に重大かつ明白な瑕疵があるためこれが無効であるときは、これによりその対象となつた土地が官有となるわけではないのであり、この場合には、右土地について下戻処分ないし下戻判決があれば、これにより右土地が本来の所有者に属することが確認されるにすぎず、右下戻処分等によつて本来の所有者につき所有権が創設されるわけではない。ただ、下戻法は、右のような場合も含めて官有とするとした官民有区分により、その対象となつた土地は官有に編入されたとの仮定のもとに、改めて下げ戻すという新たな処分をする形式をとることによつて右官民有区分に関する誤りを是正しようとしたものである。そうだとすれば、下戻法所定の申請期間経過後においても、官民有区分に重大かつ明白な瑕疵があるためこれが無効であるときは、行政訴訟としてはもとより民事訴訟の前提問題として、いつでもこれを理由として官民有区分の効力を争い得ることは当然であり、官民有区分や下戻処分等に創設的効力があることを前提とし、下戻法所定の申請期間経過後官民有区分の効力を争う途は一切失われたとする被控訴人の主張は、行政行為に関する基本的理論を無視した議論であり、その前提自体すでに失当というべきである。

(被控訴人の主張)

1  高鍋藩における部一山制度と本件土地

高鍋藩は、育成林業に大いに努め、その奨励策として「部一山」と称する特異な林野制度を採用していた。これは藩が領内の藩有の山林原野のうち杉の造林に適するところに領民をして自由に杉穂を植え付けさせ、仕付木(杉)が成木となつた段階で藩と植栽者とが現地で一定の割合をもつて分割し、その分収の経緯を杉帳に記載するというものである。当時は、山林原野はすべて藩が領有するものと観念されており、領民が自由にこれを支配進退するということは容認されていなかつた。本件土地は、右のような部一山制度が適用される造林地の一つであつたのであり、控訴人ら主張のように牧場用地とされていたものではない。

この部一山制度の適用される造林地は、明治維新の後も部分林として残り、今日に及んでいる。ここに部分林というのは地元部落民が個人で国との間に部分林契約を締結し、契約で定められた土地に杉等の樹木を植栽する造林地のことであり、本件土地内には今日でも多くの部分林が存在している。これらの部分林の植栽者は部落等の団体ではなく個人であり、その大部分は高則部落の部落民であつて、揚原部落の部落民は僅か三名にすぎない。

ところで、本件土地の一部に土塁様のものが存在していることを今日でも現地にみることができる。しかしながら、この土塁様のものは控訴人ら主張のような大規模のものではなく、その規模は極めて小さく、牛馬が容易に飛び越えられる形状のものであつて、牧場の囲繞施設とはとうてい考えられない。むしろ、本件土地が前記のように部分林としての造林地であることに鑑みれば、右土塁様のものは固定防火線とみられるのである。つまり、鹿児島大林区署林業課長の福島営林署長らにあてた明治三四年一一月二五日付「造林事業防火線設定順序」と題する通達によれば、鹿児島大林区署は傘下の営林署に対し、造林地の周囲に野火侵襲等を防止するため、固定防火線として堤塘を築設するよう形状を示して指導しており、右固定防火線の最も代表的なものが土塁である。本件土地上にある土塁様のものは右固定防火線として築設されたものであることも十分に考えられ、本件土地に土塁様のものが存するからといつて本件土地が牧場用地であつたことの証左とすることはできない。

2  揚原部落民と本件土地との関係

仮に本件土地が控訴人ら主張のように里牧の跡地であるとしても、次のような事実に鑑みると、揚原部落民が本件土地を放牧地として利用していたものとは推認し難い。

(一) 本件土地に最も近いのは高則部落であり、次いで胡桃ケ野部落がこれに続き、揚原部落は、本件土地から約二キロメートルを距てた最も遠隔の集落である。したがつて、揚原部落民が高則、胡桃ケ野両部落民と対等にこれを利用し、管理するには極めて不便であつたということができる。明治一二年の地租改正の当時でも、揚原部落には一〇数戸の戸数しかなく、近くに利用できる土地があれば、遠く離れた本件土地を利用することはなかつたと思料されるが、揚原部落民が本件土地の利用を必要とした特段の事情は本件に関する資料にはみられない。

(二) 本件土地の東側に隣接する土地は、通称「シノズガ丘」と呼ばれ、丘状の地形をなし、飼料もしくは肥料用の採草に適する緩急斜地である。大正一二年熊本営林局鉄肥・串間営林署作成の福島事業区林相図によれば、右図面作成当時、右土地は放牧地ではなく採草地として利用されていたことになつており、高則、胡桃ケ野の両部落民がこれを国から借り受け、採草地として利用していたことが認められるが、揚原部落民がこれに加つていた形跡はない。のみならず、その西側に続く本件土地は、場所によつては四〇度にも及ぶ急峻な地形をなし、実際に放牧地としてこれを利用し得たかは甚だ疑問である。

(三) 宮崎県立宮崎図書館保管の「舊文書三」に掲載されている旧高鍋藩領内福島院中御牧並びに里牧の牛馬焼印改帳には、「高則村、胡桃ケ野村」について「」の焼印を用いた旨の記録があるが、揚原については何らの記載もない。このことは揚原部落民が里牧に放牧していなかつたことの証左であり、高則、胡桃ケ野両部落民が下戻訴訟を提起したのに、揚原部落民がこれに参加しなかつたことと深いかかわりがあると思料される。もつとも、第二回宮崎県馬匹共進会協賛会編さんの「宮崎縣畜産小史」にもおおむね右同様の牛馬焼印改帳が掲載されており、これには「胡桃ケ野村」について「」の焼印を用いた旨の記載はあるが、揚原同様、高則についての記載はない。しかしながら、右「舊文書三」は、宮崎県が旧文書として保管しているものであり、その書体からして藩政時代の古文書とみられ、その記載内容の信ぴよう性は、明治四三年一一月に出版され、おそらくその出典は右「舊文書三」ではないかと推測される右「宮崎縣畜産小史」よりは高いものである。

(四) 下戻訴訟の判決に基づき、分割協議の結果、高則、胡桃ケ野両部落民の所有となつた土地は通称「向鶴」と呼ばれ、その位置は胡桃ケ野部落を北とし、南は揚原部落近くまで延びている。したがつて、この土地は高則、胡桃ケ野、揚原の各部落民が相互に利用するのに格好な位置関係にあるわけであるが、右分割協議後の利用状況についてみる限り、揚原部落民がこの利用に参加した形跡はなく、高則部落の古老の一人は、同人が物心ついた当時には高則、胡桃ケ野両部落では馬を放牧していた事実はないと述べている。また、右「向鶴」の土地は、分割協議後間もなく、地元福島町在住の者に売却されており、この地方では、すでに明治初年には放牧の必要がなくなつていたものと考えられる。

(五) 本件土地の麓には水田が散在しているところ、これらの水田の所有者はその大半が高則部落民であり、揚原部落民は皆無である。してみると、右水田に隣接する本件土地に揚原部落民がその持ち馬を放牧していたとはとうてい推認し難い。

3  本件処分の正当性

前記のとおり、藩政時代、本件土地は部一山制度が適用される造林地(部一山)であつたところ、官民有区分においては部一山は官有地に編入されるべきものであつた。すなわち、鹿児島県令岩村通俊の明治一二年一月二五日付「地所々有主取定心得書」は、明治一二年、鹿児島県が地租改正事業に着手するに当り、同県令が中央政府の法令の趣旨を踏まえ、さらに地方の実情を加味して官民有区分の基準を示したものであるが、その第四条には部一山は官有地に編入すべきことが明記されている。また、鹿児島大林区署長の農商務大臣あて明治三四年一二月一七日付特第五〇五号「宮崎県山林特別処分調査結了ニ付禀申」と題する書面中にも「従来部一山ノ官有ナリシ事ハ官民共ニ争ハザリシ所ナリ。」との記載があり、部一山が官有地に編入されるべきものとされていたことを裏付けている。このように部一山が官有地に編入されたのは、その地盤が従来藩の領有する土地であつたことの沿革に基づくものと考えられるのであり、部一山の地盤が藩の領有する土地であつたことは官民共通の認識であつた。

里牧運上は、藩政当時、小物成の一種である浮役の部に入れられていた。浮役は検地帳の外書と称する個所に記載される年貢である場合が多く、元来、土地自体に対する賦課ではなく、土地の用益またはその生産物を対象とするものであつた。これからすれば、本件土地が藩政当時里牧であり、里牧運上が上納されていたとしても、それは正租、つまり本途物成ないし地租ではなかつたのであるから、そのことから直ちに本件土地が民有とされるべきことが明白であつたということはできない。

4  官民有区分の法的性質

江戸時代においては、近代的所有権制度のもとにおけるような抽象的、包括的な内容を持つ土地、とりわけ山林原野等についての支配権は成立しておらず、一個の土地に領主の支配と人民の支配進退または所持とが両立し、かつ、人民の土地に対する支配進退または所持にもその程度において強弱さまざまなものが存在した。官民有区分は、右のような複雑で前近代的な土地の支配型態を今日における抽象的、包括的な所有権に引き直すこと、換言すれば、土地について近代的な所有権を確立し、そのうえで特定の土地を官民のいずれかに仕分けするという困難を伴う作業であつたのである。それは単なる事実もしくは権利の確認作業ではなく、個々の土地について今日的な意味での所有権を現実にはじめて付与(創設)するとともに、これを官民のいずれに帰属させるかを決する法的価値判断作用であり、形成的な創設処分である。官民有区分のこのような特質からすれば、仮に官または民への編入のいずれにするかの法的判断に誤りがあつたとした場合、官民有区分をなかつたことにするとか、それを無効とし、何時でも訴訟で争い得るとすることは、官民有区分の制度目的、法的性質、さらには過誤是正の手段として訴願や行政裁判所への出訴が認められていたことからしてとうてい是認し得ないところである。下戻法第一条が明治三三年六月三〇日までに限つて下戻申請権を行使することができるとしたのは、右期限後においては、官民有区分の効力を訴訟によつても一切争い得なくすることとし、この点に関する紛争を根絶しようとしたものであり、この立法趣旨、目的からも右のことが裏付けられる。

5  いわゆる下戻判決の効力

最高裁判所は昭和五七年七月一五日第一小法廷判決(昭和五五年(オ)第六二四号)において、下戻法に基づき、行政裁判所が行政庁に対し係争山林を下戻申請者に下戻すべき旨の料決をしたときは、右判決により下戻申請者は新たに右山林の所有権を取得するに至つたというべきである旨の見解を明らかにした。この判決は、直接には下戻判決に創設的効力があることを判示しているものであるが、その当然の前提として、下戻判決があるまでは当該係争山林は国の所有に属していた旨をも明らかにしていると解することができる。これに反して、官民有区分に無効という概念を容れる余地があり、官民有区分が無効であるときは、当該係争山林は従前から下戻申請者の所有であつたというのであれば、この場合、下戻判決は下戻申請者の所有権を確認するものでなければならず、これにより下戻申請者が新たに係争山林の所有権を取得するということはあり得ないわけであり、そもそも下戻申請ということ自体意味をなさないことになるからである。このように、前記最高裁判所判決において、下戻判決前においては当該係争山林は国の所有であつたとの前提が判文上何の留保条件もなしに採られていることからすれば、右判決は、下戻判決に先立つ官民有区分によつて官有とされた土地は例外なく国に帰属したこと、すなわち、官民有区分には本来無効という概念を容れる余地がないことを前提としているというべきである。

本件土地は明治一二年に官民有区分(本件処分)によつて官有とされ、その後、下戻判決等による権利変動はなかつたのであるから、その所有権は、右官民有区分によつて創設されて以来、国に帰属し今日に及んでいるというべきである。

三  証拠<省略>

理由

一明治一二年ごろ、地租改正に伴う山林原野等の官民有区分が実施された際、本件土地を官有地に編入する旨の処分(本件処分)があつたことは当事者間に争いがない。

二そこで、まず、地租改正に伴う山林原野等の官民有区分とはいかなるものか、その法律的性質について検討する。

<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。

1  わが国では、明治時代になつてそれまでの藩政時代における領主と人民による封建的な土地の支配関係に大幅な変革が加えられ、次第に今日におけるような近代的土地所有権制度が整備されていつた。(1)明治四年九月七日大蔵省達第四七号により農民に対して田畑の自由な使用収益を認め、同五年二月一五日太政官布告第五〇号「地所永代売買ヲ許ス」により士農工商の四民に対して土地の所持と売買の自由を認めたこと、(2)明治五年二月二四日大蔵省達第二五号「土地売買譲渡ニ付地券渡方規則」、同年七月四日同第八三号、その他関係の太政官布告により地券(いわゆる壬申地券)を発行、交付したこと、(3)明治六年七月二八日太政官布告第二七二号「地租改正法」および同別紙「地租改正条例」、その他関係の大蔵省達等により地租改正事業が実施されたことならびに(4)明治七年一一月六日太政官布告第一二〇号による改正後の「地所名称区分」、その他関係の太政官達等により山林原野等についての官民有区分が実施されたこと等が右変革のために採られた主要な施策である。

2  右のうち(2)の地券の発行、交付は、政府当局によつて特定の土地が個人の所有(私有地)と認定された場合、その所有者に対して所有者であることの「確証」として地券を発行、交付し、個々の土地ごとにその所有関係を明確にしようとしたものである。しかしながら、この場合、誰を特定の土地の所有者と認定するかについては、特別の基準は定立されず、結局は藩政時代からの既得権が尊重され、当時の記録や土地の現実的、具体的な支配の態様をもとにし、近代的所有権の観念に照らして最も所有権者に近い立場にあつた者が所有者と認定されることとなつた。当時は、耕地や宅地についての支配関係は比較的明確であつたため、右のような方法による所有者の認定は必ずしも困難ではなく、また当初、政府当局者の側には右のようにして私有地と認定され、地券が発行、交付された以外の土地は官有地となるものとの考え方が存在していた。ところが、地券の発行、交付が進められる過程で、土地のなかにはその藩政時代からの支配の態様からして私有地とすることはできないが、そうかといつて官有地とするのも困難な、いわばその中間的なものが存在することが認識されるようになつた。永年の慣行に従い、一村、数村または一村内の部落住民が、共同で占有し、生産および生活に不可欠な使用収益をしている山林、原野、池沼等がこれである。そこで、政府当局は、明治五年九月四日大蔵省達第一二六号により前記同年二月二四日同第二五号「土地売買譲渡ニ付地券渡方規則」に第一五条から第四〇条が追加された際、その追加規定中に公有地の名称と公有地地券についての定めをして、右のような土地は私有地とも官有地とも異なる別種の公有地とし、公有地については、公有地地券を発行して村方、組合村方または年番持等の責任者に交付することとした。

3  地券の発行、交付の段階における官有地、私有地および公有地の区分は、その後の地租改正事業にも受け継がれた。しかしながら、地租改正は、元来、土地について近代的所有権制度を確立し、その帰属関係を明確にする反面、個人の所有とされた土地(私有地)からはその地価に対する一定割合の地租を徴収し国家の財政的基盤の安定を図ることを主要な眼目としていたのであり、このような地租改正の事業目的からすれば、官有地でもなければ私有地でもない、公有地という性格の極めてあいまいな土地の種別を残しておくことは、地租改正事業の遂行上、いたづらに混乱を招き、支障を生ずると考えられるようになつた。そこで、政府当局は、前記明治七年一一月七日太政官布告第一二〇号によつて「地所名称区分」(明治六年三月二五日太政官布告第一一四号)を改正し、従来の「公有地」の種別を廃止して土地を「官有地」と「民有地」の二つに区分することとし、これに基づき明治七年一一月七日太政官達第一四三号をもつて従前公有地とされていた土地を改めて「官」「民」のいずれかに区分し、その所有権の帰属関係を明確にするための作業にとりかかることになつた。明治七年ごろから同一四年ごろにかけて全国的に実施された山林原野等の官民有区分がすなわちこれであり、一般に「地租改正に伴う官民有区分」と称されているものである。

4  この事業遂行のため政府は中央に地租改正事務局をおき実際の作業はその統括のもとに、府・県等の地方機関の手によつて実施された。その方法は、地方機関の担当職員(官員)が土地の支配関係についての経緯や実体を調査したうえ、これが中央政府によつて定められた関係法令等に照らして民有とすべきときは、当該対象地を民有地と認定し、地券を発行してその所有者に交付するというものであり、その際、調査の対象となつたが、民有地との認定を受けなかつた土地は官有地に編入されたものである。

ところで、官民有区分を命じた基本法令たる前記明治七年一一月七日太政官達第一四三号では、その区分に関する一般的基準を定めなかつた。この当時の担当部局は内務省であり、同省は伺、指令などにより個別的に指示をしたが、区分基準に関する法令を制定しなかつた。やがて、明治八年五月地租改正事務局が設置され、官民有区分処分もその担当となり、同事務局で民有地認定の基準を最初に明文をもつて規定したのが明治八年六月二二日地租改正事務局達乙第三号、および同年七月八日地租改正事務局議定「地所処分仮規則」である。しかしながら、ここで定められた基準は、その後、明治八年一二月二四日地租改正事務局達乙第一一号により一部に変更が加えられるなどして次第にその内容が具体化され、解釈、運用の統一が図られていつた。明治九年一月二九日地租改正事務局別報第一一号達、官民有区別処分派出官員心得書(以下、「官員心得書」という。)は、官民有区分事業の実務に携る職員(官員)の職務遂行上の心得を示したものにすぎないが、ここには民有地認定の基準についてそれまでに示された事柄が包括的に集約された形で掲げられており、官民有区分基準の最終的規制であつて、同事業の遂行上、現実に重要な役割を果したものである(なお、上記達や議定などはいずれも前記明治七年一一月七日太政官達第一四三号に基づきその実施のために出されたものである。)。

官員心得書に記載されているところによると、山野、原野等で民有地と認定されるのは、かつて紛争があり領主または幕府の裁判を受けたものを除き、次に挙げるいずれかの要件を具備する土地である。(1)「旧領主地頭ニ於テ既ニ某村持ト定メ官簿又ハ村簿ノ内公証トスヘキ書類ニ記載アル」もの(官員心得書第一条本文前段)、すなわち、藩政時代領主や地頭においてすでにその土地を特定の村の所持と定めたことが検地帳、水帳、名寄帳等の公簿に記載されているもの、(2)「口碑ト雖モ樹木草茅等其村ニテ自由ニシ何村持ト唱来リシコトヲ比隣郡村ニ於テモ瞭知シ遺証ニ代ツテ保証スル」もの(官員心得書第一条本文後段)、すなわち、前記(1)のような書類上の記載という確証がなく口伝えであつても、樹木、草茅等をその村で自由にし、何村持と唱え来たことを比隣郡村でも明瞭に知悉しており、古文書の記載に代えて保証するもの、(3)「従来村山村林ト唱ヘ樹木植付及ヒ焼払等其村所有地ノ如ク進退シ他ノ普通其地ヲ所有シテ天生ノ草木等伐刈シ来ルモノトハ判然異ナル類」についてはその「成跡ヲ視認シ」得るもの(官員心得書第二条本文)、すなわち、従前から村山、村林等と呼称し、樹木の植え付け、焼き払いをするなどして手入れを加え、村の所有であるかのように支配してきた事跡が明白に確認できるもの、以上の土地がそれである。そのほか、官員心得書には挙げられていないが、(4)その前提となつた前記地所処分仮規則第一章第四条は「人民名受ノ確証アルカ又ハ出金買得セシ証左アルモノ」、すなわち、人民が領主から授つたことの確かな証拠があるもの、または資金を出して買い取つた証拠があるものは民有地とする旨を定めている。

以上の事実が認められ、これを左右するに足りる証拠はない。

右事実によれば、山林、原野等の官民有区分は、前記認定の経緯によりいつたん公有地とされた山林、原野等について、国の行政機関が法令等に基づき公権力の発動として、改めてこれを「官有」、「民有」のいずれかに区分し、その所有権の帰属を決するものであるから、狭義の行政処分の一種とみることができ、その対象となつた山林原野等は、これに従い、終局的に「官」もしくは「民」のいずれかの所有に帰したものというべきである。しかしながら、官民有区分が無効であるか、もしくはこれが取り消されてその効力を失つた場合には、その対象となつた山林原野等についての官民有区分がされなかつたと同視できるわけであり、したがつて、その後、改めて右山林原野等について後記の下戻法に基づく下戻または下戻判決等の行政上の措置もしくは払下げ等の私法上の措置が採られた場合は別として、そうでない限りは、右山林原野等は「官」、「民」のいずれの所有とも決せられない状態のままに推移したものということができる。そして、官民有区分が実施されるまでの前認定の経緯やその趣旨・目的に徴するときは、右のような山林原野等については、それから長年月を経過した今日においてもなお、前記民有地認定の基準に照らして現在これが誰の所有に属しているかを認定判断するのが相当である。

そうだとすれば、本件処分が無効であることを前提として、官民有区分が実施された当時、控訴人らの先祖が本件土地につき右民有地認定の基準を充足するに十分な支配関係を有し、当然に民有地とされるべきであつたから、今日においては本件土地は控訴人らの所有に属しているとする控訴人らの主張は、本件処分が無効とされ、証拠上、その主張事実が認められる場合には認容されることもあり得ないことではなく、この点について、本件処分が無効とされても、控訴人らが本件土地について近代的土地所有権制度のもとにおける所有権を取得することはないとする被控訴人の主張は採用することができない。

三ところで、一般に行政処分はこれに重大かつ明白な瑕疵があるときは無効であると解されているところ、以下、本件処分についてそのような瑕疵が認められるか否かについて検討する。

1  <証拠>を総合すると、次の事実が認められ、これに反する証拠はない。

九州・福島地方(現在の宮崎県串間市に当る地域)は、藩政時代は高鍋藩所領の飛地であつたところであり、藩政当時、この地方では馬の生産が盛んで、地域内には多くの放牧場が存在した。これらの放牧場には大別して御牧と里牧の二種があり、このうち御牧はまた官牧とも称し、高鍋藩の直営にかかるものであつて、牧別当以下藩庁の役人がその管理運営に当つていた。これに対して里牧は別名百姓私牧あるいは単に私牧、百姓牧とも呼ばれ、地元の一村、数村または一村内の部落民が慣習に従い自由に放牧していた牧場である。その管理運営は、牧場に放牧する部落民(放牧を認められた部落民は「牧子」と呼ばれた。)の自治に委ねられ、慣習に従い右部落民のなかから牧乙名、牧廻、牧守等の役職者が選出され、これらの役職者が牧場の管理運営の任に当つていた(以上の事実のうち、高鍋藩内において御牧と里牧の二種の牧が存在し、前者が藩の直営であり、後者が民営であつたことは当事者間に争いがない。)。

福島地方の放牧場は、御牧または里牧のいずれであるとを問わず、牧場ごとにその周囲を「牧堀」と称する土手または「牧垣」と称する柵ないし石垣で囲繞し、放牧中の馬が逸走するのに備えていた。そして、右周囲の適当な場所には「ケド」と称する出入口が設けられ、また、牧場の内部には自然の地形を生かして「ミズクレ」と称する放牧中の馬の水飲み場や暑気、風雨等からの避難所その他の施設がおかれていた。牧場の面積は広狭さまざまであり、広いものでは一、〇〇〇町歩にも及び、狭いものでも四、五〇町歩を下らず、その放牧頭数も数百に達していた。

里牧に放牧した馬から子馬が産出された場合、その子馬はもとよりそれぞれの部落民の自由に支配進退するところとされていたが、高鍋藩は、これに対して当該部落民に「里馬毛附銀」と称する租税を課していた。これは一種の馬頭税であり、今日の税制のもとにおける営業税ないし所得税に相当するものである。このほか、里牧の管理運営に関しては、その主体となる村または部落から高鍋藩に対して毎年藩によつて指定された一定額の「里牧運上」と称する租税が上納されていた(以上の事実のうち里牧につき高鍋藩に対して「里牧運上」と称する租税が上納されていたことは当事者間に争いがない。)。

2  もと、本件土地の近辺には高則(現在の宮崎県串間市大字大平字高則)、胡桃ケ野(現在の同市大字同字胡桃ケ野)、揚原(現在の同市大字同字揚原)の三部落が存在し、三部落の近くに「高則牧」と称する里牧があつたこと、その敷地であつた山林(高則牧跡地。ただし、これに本件土地が含まれていたかどうかは暫くおく。)については明治一二年ごろ地租改正に伴う官民有区分が実施されたが、その際、右高則牧跡地は民有地と認定されず、官有地に編入する処分がなされたこと、明治三二年四月一八日法律第九九号国有土地森林原野下戻法(下戻法)は、地租改正に伴う官民有区分により官有地に編入された山林原野等ついて利害関係人からの下戻の申請を認め、これが同法所定の要件を具備しているときは、申請人に対して当該山林原野等を下げ戻すという立法であり、実質的には官民有区分の際民有地と認定するのが相当であつたのに、官有地に編入された山林原野等について官民有区分の内容を事後的に是正する作用を営むものであるところ、高則、胡桃ケ野の両部落民は行政当局に対し同法に基づき高則牧跡地について下戻の申請をしたが、容れられなかつたので、同法の定めるところに従い、行政裁判所に対し下戻を求める訴訟を提起したこと、これに対して、行政裁判所は、明治四三年五月六日、農商務大臣は高則牧跡地の二分の一を原告である高則、胡桃ケ野の両部落民に下戻すべきである旨の判決を言い渡したところ、右判決は、その理由中で下戻する土地を二分の一としたのは、右訴訟の原告となつた者は高則牧跡地を使用していた者の約半数であることをその根拠として挙げていること、その後、高則牧跡地については右訴訟の原告となつた高則、胡桃ケ野の両部落民と国との間で右判決に定められた割合に従つて分割協議が行われ、高則牧跡地のうち本件土地の東南側に続く土地は右両部落民の共有地になり、本件土地は国の所有地になつたこと、以上の事実はいずれも当事者間に争いがない。

右事実によれば、前記行政裁判所の下戻判決およびこれに従つてされた関係当事者間の分割協議は、高則牧跡地に本件土地が含まれること、換言すれば、高則牧跡地は本件土地とその東南側に続く土地であることを前提とするものであることは明らかであり、これからすれば、本件土地は高則牧跡地の一部であり、しかも、そのおおよそ二分の一を占めるものであると推認できる。

この点について、被控訴人は、本件土地には明治維新以後今日に至るまで藩政時代高鍋藩が採用していた部一山制度を承継したとみられる国と地元民との部分林契約に基づく造林地、「部分林」が存在していることを根拠として、本件土地は藩政当時も杉の造林地として使用されていたのであつて、馬の放牧場として使用されていたのではない旨主張するが、放牧場内の一部、杉の造林に適する場所は造林をすることと土地全体を牧放地として使用することとは必ずしも相容れないことではないし、放牧地内に杉の造林地が形成された事実は存在しないことの確証があれば格別、そうでない限り、被控訴人の右主張事実はいまだ前認定を覆すまでに至らないといわなければならない。

3  次に、右のとおり、本件土地が高則牧と称する里牧の跡地であるとすれば、本件土地においては、高則牧跡地の他の部分と合わせて、かつて藩政時代、さきに認定したような一村、数村または一村内の部落(本件においては、これが高則、胡桃ケ野の両部落のみなのか、控訴人らの先祖が属する揚原部落も入つていたのかは被控訴人の当審における第一五回口頭弁論期日におけるこの点に関する陳述の撤回ないし訂正の許否とも関連して争いのあるところであるが、この点についての判断はひとまずおく。)による管理運営と部落民による使用収益の実態を有する馬の放牧場経営が行われていたとみることができる。しかしながら、本件土地を含む高則牧跡地が地租改正に伴う官民有区分が実施された際右部落民との関係で民有地と認定されるべきであつたというためには、右のような部落等による管理運営と部落民による使用収益の実態が存しただけでは足りず、これがさきに認定した民有地認定の基準のいずれかに該当するものでなければならないことは多言を要しない。

そこで、この点について検討するに、前認定のとおり、地租改正に伴う官民有区分の実施に当り、政府当局が設定した民有地認定の基準は、(1)藩政時代、領主や地頭においてすでにその土地を特定の村の所持と定めたことが検地帳、水帳、名寄帳等の公簿に記載されているもの、(2)右のような確証はなく口伝えであつても、樹木、草茅等をその村で自由にし、何村持と唱えて来たことを比隣郡村でも明瞭に知悉しており、古文書の記載に代えて保証するもの、(3)従前から、村山、村林等と呼称し、樹木を植え付け、焼き払いをするなどして手入れを加え、村の所有であるかのように支配して来た事跡が明白に確認できるもの、(4)人民が領主から授つたことの確かな証拠があるもの、または村が資金を出して買い取つた証拠のあるもの、以上のいずれかの要件を備えた山林原野等であることを要するところ、高則牧跡地については、本件全証拠によつても、九州・福島地方の里牧について認められる前記の一般的な事柄以上に、右民有地認定の基準を充足するに足りる事実を認めることはできない。してみれば、地租改正に伴う官民有区分が実施された当時、高則牧跡地について前述のような部落等による管理運営と部落民による使用収益の実態が存したからといつて、そのことから直ちに高則牧跡地が当該部落民との関係で民有地と認定されるべきであつたとはいえず、この点につき本件処分に重大かつ明白な瑕疵があつたとすることは困難である。

4 もつとも、里牧について「里牧運上」と称する租税がその管理運営の主体である村または部落から高鍋藩に上納されていたことは前述のとおりであり、その租税の性質を土地の利用に対する用益税とみるか、あるいは地租とみるかは一つの問題ではあるが、仮にこれを地租とみたとしても、このことは下戻法に基づく下戻の要件ではあつても(同法第二条)、地租改正に伴う官民有区分における民有地認定の直接の要件とはされていない。したがつて、右「里牧運上」上納の事実から直ちに右官民有区分において里牧跡地が民有地に認定されるべきであつたとすることはできない(なお、本件では、高則牧について里牧運上が上納されたことの具体的事実を認めるに足りる証拠はない。)。

また、下戻法に基づく訴訟において、高則牧跡地の二分の一を高則、胡桃ケ野両部落民に下戻すべきである旨の行政裁判所の判決があつたことは前述のとおりであるが、この判決はあくまで下戻法に基づいて言い渡されたものであつて、前述したとおり、下戻法は実質的には官民有区分の内容を事後的に是正する作用を営むものであるにしても、下戻法に基づく下戻の要件と官民有区分における民有地認定の基準とはその内容を同じくするものではないのであり、右行政裁判所の判決があつたことをもつて、直ちに本件処分に重大かつ明白な瑕疵があつたとすることはできない(ちなみに、<証拠>によれば、右行政裁判所の判決は、下戻の理由として、高則牧は民設かつ人民の経営する牧場であることにつき当事者間に争いがないからほかに反証がない限りその跡地は人民の所有地とすべきであるといつているにすぎないのであつて、本件処分の効力について何ら論及しているものではない。)。

5 以上の次第であつて、本件処分には、これを無効とすべき重大かつ明白な瑕疵があつたものと認めることはできず、したがつて、本件土地は本件処分により終局的に国の所有に帰したものというべきである。

四また、仮に本件処分に何らかの瑕疵が存在していたとしても、控訴人らがその無効を主張するのは信義則上許されないと解すべきであり、その理由は、原判決に説示のとおりである(原判決三七丁表五行目冒頭から同四〇丁裏九行目尾まで)から、これを引用する(ただし、原判決三九丁裏三行目から四行目にかけて「当事者間に争いがない」とあるのを「前示のとおりである」と、同五行目の「推認されるから、」から同七行目の「推認できる」までを「推認され、してみると、その時点で同人らも本件土地につき自らの所有権を主張する余地があるのではないかとの認識を持つことは十分に可能なことであつたのである。」とそれぞれ改める。)。

五よつて、控訴人らの本訴請求はその余の点について判断するまでもなく理由がないから失当として棄却すべきであり、右と同旨の原判決は相当であつて、本件控訴は理由がないのでこれを棄却することとし、控訴費用の負担につき民事訴訟法第九五条、第八九条、第九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(岡垣學 磯部喬 大塚一郎)

別紙 選定者<省略>

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